・・ 夢と挫折

2018.04.01 佐々木エズラ師

 早稲田大学の学生時代に、私は社会学の研究者になりたいと思いました。みんなが就職活動していた大学4年の時のことです。私は心からやりたい仕事が見つかりませんでした。また就職活動用に自分を作り上げるのがいやでした。そこで、なにか特別に興味と関心を 持てるものはないかと探しました。 

そのとき、社会学の研究者が書いた本に非常に興味を持ち、自分も社会現象のメカニズムを明らかにしてみたいと思いました。その後、同大学の大学院に何とか合格することができました。 

 でも、大学院1年の時、多くの困難がありました。修士コースは2年ですが、博士コー スに行かない人は、すぐに就職活動をしなければいけませんでした。私は研究者になりたかったのですが、その自信もなく、中途半端に就職活動をしました。学費を稼ぐために新しいアルバイトも始めました。生活がとてもめまぐるしくて、心がついていけませんでした。 

同時にその時期、私は恋人にふられてしまいました。まったく孤独になり、精神的に不安定な日々が続きました。自分が傷ついているということを認めることが嫌で、何もなかったふりをしながら勉強をしていました。周りの知識豊富な先輩方を見ても圧倒され、すぐに彼らに影響されてしまい、研究テーマもころころ変わりました。 

ですから、まともな研究ができるはずもありませんでした。いろいろな本を読んでも読んでも、研究テーマがしぼれず、焦りばかりが続く日々でした。次第にうつ状態になっていましたが、自分では全然それに気づきませんでした。 

修士論文発表の朝の恐ろしい瞬間を、今でも思い出します。何もできていないのです!やむを得ず、一年留年しました。でも、もう自分には書く力がないことを認めざるを得ませんでした。「せめて卒業したら」という周囲の声をよそに、大学院中退を決めました。その時に、私には、生活のためにやっていたパソコンの仕事以外には何もありませんでした。夢も将来もなくなったのです。教育ローンの返済債務だけが残りました。 

  ・・ 生きる意味を求めて 

 生活のためにやっていた仕事を、派遣の営業さんの勧めでやめました。新しい道を探そうとしましたが、何も手がかりはありませんでした。「私はこの先どのように生きたらよいのだろう」、「いったい私の今までの歩みの何が間違っていたのだろう」。失業中の3ヶ月間ずっと考えつづけました。「私を支えてくれていた人に対する態度が根本的に間違っていた」ことに気づき始めました。自分がやりたいことのために、周囲の人々をないがしろにしていて、「自分中心の生き方」をしていたことがわかりました。 

 「自分生き方を変えたい!」と思ってから、私は一冊の本に出会いました。それは自分と向き合うための本でした。自分自身を知り、自分の好きなことをどのように仕事や社会と結び付けていくかを考えるための本でした。「ぼくたちはこの世界に生まれる前に神様に使命を果たすことを約束して生まれる」と冒頭の言葉に、心が動かされました。その時は、神がいるなんて本気では信じていませんでした。しかし「夢破れたと思っていた私にも、神様が使命を用意しているんだ」、なによりも「私にしかできない使命がもしあったら、すばらしいな。人生に迷うこともないな」。そう思ったのです。私は、自分がどういう存在かを考える必要がありました。 

・・ 「聖書」との出会い・・「変わりたい自分」 

 ちょうど同じころに、クリスチャンであった姉の友人の招きで、私はキリスト教の教会に何度か行きました。その頃はアメリカの成功者たちの本をたくさん読んでおり、彼らが 聖書を読んでいるということを知っていました。 「私が監獄につながれ、ただ一冊の本だけを持ちこめるとしたら、私は聖書を選ぶ」と言ったゲーテの話も聞き、「この聖書とは、いったいどういう本なのか?」と思いました。リンカーン、ナポレオン、ニュートン、カーネギーや世界中の偉大な人たちが「聖書は人類の最高の書物である」と認めていた本なので、それに真剣に取り組めば、成功できるのではないかと思ったのでした。 

 ところが、聖書を実際に読んでみると、自分のビジネスにすぐに生かせそうな部分はなく、意味がわからない部分も多く、首をひねるばかりでした。それなのに、あるクリスチャンのミュージシャンが「自分の中心には、音楽ではなく、神様がいる」というのを聞いて、聖書を深く理解することなく、ただ「変わりたい!」という一心で神様を信じ、洗礼を受けたのでした。 

 私が信じたいと思ったのは、「神様を信じれば、自分自身が変わる」と聞いたからで、それ以外のことはあまりよくわかっていませんでした。聖書では「すべての人は罪人である」と書いてありますが、当時の私は、「自分は立派な人間ではないが、それほど悪人ではないだろう」と思っただけでした。ですから、神様を信じても、生活はあまり変わりませんでした。依然として、自分の成功を求めて、ガンバって自分にできることをしていました。 

 そのうちに、「最善を尽くしても、すぐに挫折してしまう弱い自分」に嫌気がさしてきていました。「人生はこの繰り返しか」と失望しかかっていました。「新しい道を踏み出すんだ!」などと言って、無謀にも派遣の仕事もやめていたため、ついに自分の所持金が底をつく時が来ました。「人々に夢を語っていた自分」、「何かすばらしい知識をもっているように話していた自分」と「現実には親から借金をしなければならない自分」との間の大きな矛盾に、涙がでました。 

 ・・ 神様の見捨てない愛 

 ちょうどそのときに、クリスチャンの姉から手紙が来ました。教会で奉仕をしていた姉は、少しのアルバイトしかできない状態でした。姉からの手紙には、「何もできないけれど、がんばってね」と一切れの紙が入ってあり、その中にお金が包んでありました。涙が流れました。食べるにも困っていた私にとって、決して裕福でない姉がしてくれた愛にどれほど感動したでしょう。とても不思議ですばらしい体験でした。 

私は「自分自身を愛する」決心をしました。今までは理想のために自分を虐待するような生き方でした。でも、私は確かに神様の愛に触れた気がしました。私は派遣の求人に応募したところ、奇跡的に、ある大手の通信会社の法人営業の会社に契約社員として雇われました。

自分の力では到底できないことが、その時に起こりました。面接の前に次の聖書の言葉の一節を読んだのです。

「…何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するに及びません。言うべきことは、そのときに神様が教えてくださるからです」
(ルカ12:12) 

私は何も準備しないで面接に行きました。「その営業所で初めて面接当日に採用される」という奇跡が起こったのです。神様は私をたしかに愛しておられることを心から喜びました。 

営業を始めて数か月の間、新しい知識と経験をしながら充実した日々を送っていました。初めて経験した営業ですが、さまざまな人間関係のスキルを磨くことができますし、また、 教えてくれる方々が本当にすばらしかったです。  

 ・・ 罪の存在(罪びとであること)に気づく 

 しかし、3ヶ月が経って、初めは好調だった成績が、目に見えて下がっていきました。いろいろアドバイスを受けましたが、一向によくなりませんでした。私は、「またか…」という悲しい思いにとらわれました。気づくと、私は、教会にも行かず、仕事の準備や勉強もせず、ただテレビゲームをやっていました。自己嫌悪に陥っているのですが、やる気が出ないのです。いくらがんばろうとしても力が出てこないのです。「人生はこの繰り返しな のか」とまた絶望にとらわれそうでした。 

聖書を読んでいると、パウロという人が、こう言っていました。 

「わたしには、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことを行っているからです。…私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」
(ローマ書7:15-19) 

「自分も同じだ」「自分もできない」と思いました。「自分がいかに弱い罪びとであるか」ということがよくわかりました。でも、聖書は希望を語っていました。 「しかし、律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じ たのです」
(ガラテヤ書2:16) 

私はいつも、「自分の力で正しいことを行えば、自分の理想の状態にいける」と思っていました。そして、何度も倒れ失望していました。「自分の力では善を行い続けることができない」のです。出口はないように思えました。その度に神様は、いろいろな人を通して私を助け、「私が自分の力ではなく、神様に頼って生きるように」導いておられたのです。思えば私が絶望に瀕した時、どこからともなく、いつも不思議な助けがやってきました。 

ようやく、「神様であるイエス・キリストを信じることが、どういうことなのか」がわかりました。私はキリストの愛を知りました。イエス・キリストは、私の罪を背負って死んでくださり、三日後に復活されました。この弱い罪びとの私を背負って、イエス様が私の人生を導いてくださるのです。イエス様が私の罪が生んだすべての負債を払い終えて、信じた私の心も復活させてくださり、一緒に私の人生を生きてくださるのです。全能の神とともに生きる人生! 私はようやく、生きる意味と希望と力を得ることができました。  

 

・・ キリストの愛に目覚めて自分が変わる 

 それからというもの、私は考え方が根本的に変わりました。もう脅迫的に理想を追い求めなくてもよくなりました。私の自分探しは、神の中で決着しました。何かができないからといって、自分を責め続ける必要はなくなりました。神様は私の罪を背負ってくださり、 私を赦してくださっているからです。 

 本来、神様は私を、「神のイメージ」に「神の最高の作品」として造ってくださいました。「神のイメージ」とは、「神そっくり」に、「神と同じ」にということです。言わば、私という個性を持った地上における「神の分身」、「神の体現者」が、本当の私なのです。罪のために、私の心の目が目隠しされていて、「神のとてつもないすばらしさ」、「自分の途方もないすばらしさ」が見えないだけなのです。 

時計や車にそれぞれの役割があるように、この世界で神様が与える使命を果たすために、私は造られたのです。「たった一人のかけがえのない存在」として造られました。自分では足りないと思える部分でも、神様はそう見てはおられません。神は、あるがままの本当の私を見ておられます。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」 (イザヤ書43章)

とおっしゃっています。私はこの先、神に造られた個性を持った「本当のすばらしい私自身」に目覚め、大きく変わるでしょう。 

人に対する態度も少しずつ変わってきました。以前の自分と同じように苦しんでいる人を愛したいと思うようになりました。まるで、神がその人を愛したいと願っているその心を、共にしているような感覚です。その人が神と出逢い、自分自身が変えられていくことは、なんとすばらしいことでしょうか。 

 もう一つ、クリスチャンになってすばらしいことがあります。それは、「苦難に感謝すること」でした。苦難も神様が与えてくれた訓練だということがわかると、祈りの中で心が満たされるのです。そして、神様は苦難の中で、私の使命や私に対するすばらしい愛を語ってくださるのです。苦難に前向きに耐え抜くことができるようになりました。 

・・ キリストを受け入れる勧め 

 最後に、私はこの証しを読んでくださった人が、もしまだ神様であるイエス・キリストをご存じでなければ、見えないけれども私たちのすべてをご存知のこの神様に、話しかけ呼び求めるてみることをお勧めします。 

「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう」
(エレミヤ書29:11〜12) 

 聖書にこうあります。今も生きていて、あなたの心の叫びをすべて聞いておられる、イエス・キリストは、「わたしはあなたのすべての苦しみを背負う」とおっしゃり、「あなたもわたしの愛に応えてほしい」と語っています。ですから、私も、「あなたにこの神様に心を開いて欲しい」と願うのです。